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徳川家康が江戸入りする以前の、永禄10年(1567)に開拓が実施されるまで、赤坂には山林や畑が多く、人家はあまりありませんでした。大永4年(1524)、小田原北条軍が江戸城攻略に成功し、「一ツ木原」で勝どきをあげた記録があります。

赤坂の起源は、赤坂見附から四ッ谷へのぼる「紀伊国坂」のこととされています。

他にも坂上に茜草(あかねぐさ)が生えており、「赤根山(あかねやま)」と呼ばれたことから、赤根山にのぼる坂を赤坂と称するようになったというもの。他には「染物屋が坂に赤い絹を干したから」という別の説もあります。しかし元赤坂町があったのは千代田区側で、赤坂見附の造成により現地に移されました。

赤坂の名は、明暦3年(1657)発行の地図に、はじめて登場しますが、このときは千代田区側に記されていました。このことから、元は麹町へのぼる坂の名だった可能性もあります。江戸期のこの地域は大半が武家地で、町らしい町は、田町、新町、裏伝馬町あたりでした。

明治11年(1878)の「郡区町村編制法」により、赤坂、青山地区が赤坂区となりました。昭和22年(1947)に港区が成立し、赤坂区に所属した各町はすべて“赤坂”を冠称しました。昭和41年(1966)の「住居表示に関する法律」により、赤坂溜池町、赤坂田町、赤坂新町、赤坂一ッ木町、赤坂丹後町赤坂表町、赤坂台町、赤坂檜町、赤坂中之町、赤坂氷川町、赤坂福吉町、赤坂霊南坂町などの全域または一部に、麻布谷町の一区画をあわせて、現在の「赤坂」となりました。※港区ホームページより抜粋

赤坂見附の地名の由来は江戸城には、かつて「赤坂見附」という名の城門がありました。その門に由来していると言われます。見附とは、城の外郭に設置された見張り付きの城門のこと。江戸城には、主要な城門が全部で36あったとされ、それらは「江戸城三十六見附」と呼ばれていました。

上記写真にも記載があるように1657年の地図が発行される前から赤坂と呼ばれていた事がわかります。

そんな歴史ある赤坂で周りを見渡すと歴史的な文化財などがたくさん残っています。

少し気にして歩いてみると様々な遺跡などもありますので、仕事帰りなどに立ち寄ってみてください。